応天の門予習:菅原道真②政治家としての栄華

月夜に梅花を見る宝塚作品考察

本記事では『応天の門』のその後の道真を中心に、歌人として/政治家として彼がどのような生き方をしたのかを模索していきたいと思います!あんなに唐に憧れていた道真がなぜ遣唐使を廃止する提言をしたのか?彼はどのようなビジョンを持っていたのか?など、様々な疑問を探っていきたいと思います。

ちなみに道真の幼少期、文章生の頃について知りたい方はこちらの記事を参照↓

歌人として、政治家として

菅原道真といえば、「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(春な忘れそ)」という歌を想起する方も多いのではないでしょうか。道真は類稀なる才能を持った歌人として知られていますが、彼は卓越した手腕を持った政治家でもありました。そして歌×政治という二つの才能を掛け合わせることによって、すさまじいインパクトのある作品を書き上げました。それが『寒早十首』です。

886年、42歳の道真は外官(地方官)として讃岐守となるよう命じられます。讃岐は当時人口密度が高く、貴族たちが中央の高い官職(顕職)につく前に一度は国守に任命される国の一つでした。つまり、「讃岐守に任命されるということは、中央政界への栄転を約束されたようなもの」(平田, 2000, p.55)でしたが、道真自身は左遷だと思い込んでひどく落ち込みます。彼は、年齢からみてももうそろそろ中央の顕職に就任する時期だと考えていたらしく、思いもよらない命令だったようです。

このような動揺を見せた道真ですが、いざ讃岐守となると、政治の立て直しのために奔走します。詳しくは『消された政治家・菅原道真』を参照してほしいのですが、当時、貧困のために脱税する人々が後を絶えず、讃岐国は破産状態にありました。

道真は讃岐国で貧しい民衆の姿を目にし、連作漢詩『寒早十首』を書き上げます。それぞれの詩は「冬がきて寒さが一番早く見にこたえるのは誰であろうか?」という問いから始まり、貧困に苦しむ民衆の姿をうつし出します。道真の詩の巧みさを、平田は以下のように表現しています。

現代の報道写真家は一瞬を写真に切り取って、現実とその背後にひそむさまざまな問題をわれわれに訴えるが、漢詩人道真は九世紀末の政治と社会の実態を、「寒早十首」という連作漢詩によって見事に切り取って見せた。後述の「行春詩」では、あたかもトーキー映画のように映像と音声で、讃岐の現実が活写されている。それは単に漢詩人として讃岐国の情景を詠い、自らの心情を吐露したものではない。そこには有能な官僚としての道真の姿が垣間見える。

平田, 2000, p.70

この時点ではまだ、律令制を維持しながら政治を立て直す方向を模索していたようです(平田, 2000, p.70)。

律令制度への疑問

しかしながら、道真はだんだんと律令制度自体に疑問を覚えるようになっていきます。

律令制度とは、律令と呼ばれる法体系に基づく国家制度のことを指します。日本では7世紀後期から10世紀まで実施され、唐の制度を真似て作られました。

しかし、律令制はそのスタートからつまずきをみせた。官僚の増加にともなう人件費の増大、国家を荘厳する宮都の相つぐ造営(平城京・難波京・恭仁京・紫香楽宮など)によって、奈良時代に入ると、国家予算はどんどん膨れ上がったが、それを支える課丁は、過酷な労働税から逃れるために逃亡したり偽籍を行ったりして、人頭税は増えるどころか、減少の一途をたどったのである。

平田, 2000, p.105

遣唐使派遣の中止

894年8月21日、道真は遣唐使に任じられます。副使は紀長谷雄です。ついに憧れの唐に行けるよ、やったね道真!

……と思ったところですが、道真はなんと9月14日に、遣唐使派遣の可否を審議するよう政府に訴えます。

なぜ道真が遣唐使派遣に反対したのかについては様々な説があるようですが、道真自身は、①唐が衰退していること、②航海には難破の危険があるうえに、唐に着いてからも様々な困難が待ち受けていること、を理由として挙げているようです(平田, 2000, p.135-136)。

これまで何度も述べてきたし、これからもたびたび触れざるをえない事柄に、当時日本が直面していた深刻な政治的危機、律令体制そのものの行き詰まりがある。道真は当面する課題の解決に日夜頭を悩ましていたはずである。当然、唐の律令体制の凋弊が何から起ったか、唐はそれをどう乗りきろうとしているか、心底からそれを知りたい、みずからの目で見てみたいと思ったに違いない。

平田, 2000, p.136

しかしながら、道真が辿りついた結論は「遣唐使派遣の中止」でした。

なぜか。それは、道真が「唐を真似た政治から脱却し、日本独自の政治体制を打ち立てなければならない」と決意したからです。平田は、道真の心境を以下のように表現しています。

道真がその後、寛平末年から昌泰年間にかけて実施した国政改革の内容をみれば一目瞭然であるが、この遣唐使任命をきっかけに国政の進むべき方向を熟慮した結論として、唐から受け入れた律令制を墨守せず、日本の現状に合った律令制に改めるべきだと決断したと思われる。

平田, 2000, p.136

宇多天皇からの寵愛

当時政治の中心にいた貴族たちが相次いで没したこともあり、897(寛平9)年になると、宇多天皇は道真を権大納言、右大将に任命しました。文官出身であるにもかかわらず、軍事指揮権を手中におさめたのです。

ちなみに、このとき同時に藤原時平(871-909)が大納言と左大将に命じられました。時平は藤原基経の長男です。勘の良い読者の方ならお気づきかもしれませんが、もうこの時点で不穏な空気が漂っていますね。

道真が権大納言就任直後、宇多天皇はまだ31歳の若さであるにもかかわらず、13歳の皇太子敦仁親王に譲位し、醍醐天皇が誕生しました。

実は宇多天皇は以前から譲位を考えており、そのときにも道真に相談しました。その際には道真は反対したそうですが、897年に再び天皇が譲位を口にした際には賛成しました。なぜ道真は心変わりをしたのでしょうか。

平田によれば、その理由はずばり、道真がすでに政治的権力を握り、自分の理想とする改革を推し進めるだけの準備が整ったからでした(平田, 2000, p.147)。そして道真が理想を実現するためには、「宇多天皇が譲位して律令制度の枠外で自由に発言し、行動することが不可欠だった」のです(平田, 2000, p.148)。

平田はこれを「宇田院政」であると主張しています。院政とは上皇が政治の実権を握っている政治形態のことで、摂関政治の衰えた平安後期から始まったとされていますから、平田の「宇田院政説」はかなり斬新な主張です。

宇多天皇は譲位にあたって、道真と時平に政治を委ねることを宣言します。他の納言たちがこれに反発し、「俺たちは政治に関与しちゃいけねえっていうのかよ!だったらさぼっちゃお!」と欠勤するという事件が起こりました。平田は、この事件こそがまさに道真を中心とする宇田院政が機能し始めたことの証左であると言います(平田, 2000, p.150)。

道真の国政改革

それでは、道真は具体的にはどのように日本を「治療」しようとしていたのでしょうか?(ストルーエンセ風に言ってみた)

ここで衝撃の事実が発覚するのですが、なんと道真が行った国政改革に関する法規はその一切が消失してしまっているのです!

寛平八年の民部卿就任から西海に左遷された昌泰四年(延喜元年)正月までに制定された国政改革関係の重要、、法規が、すべて消えて、、、しまったのである。したがって、道真の改革の全体像を知ることはほとんど絶望的であるが、現存する史料から一端を復原してみたい。

平田, 2000, p.153

ありがとう平田先生!!

では、簡単に道真の改革の概要を見てみましょう。平田によれば、道真の改革派大体以下の3つに分類できるようです。

  1. 財政監査制度の施行
  2. 納税一国請負制の開始
  3. 奴碑解放

難しい言葉が続いていますが、道真の改革の肝となるのは①税制②徴税・監査制度③土地制度の3つだったそうです(平田, 2000, p.192)。もっと気になる方はぜひ本書のpp.152-175を読んでみてください。

新たな制度の模索:人の支配から土地の支配へ

これらの改革の根本となる考えは、「人の支配から土地の支配へ」という統治体系の変換にあります。

道真は讃岐国に赴任し、民衆の貧困と財政の破綻という現状を知りました。この状況を打開するには、今までの制度を遵守するのではなく、新たな制度が必要だと考えたのです。それがつまり、支配の対象を人から土地へ変更するというものでした。戸籍はいくらでもごまかしがきくため、国民一人一人に税金をかけるには無理があります。しかし土地ならばごまかしがきかないと考えたのです。

「王朝国家」構想

このような、土地を統治の礎とする、道真が構想した国家のことを平田は「王朝国家」と呼んでいます。その理由を平田は以下のように述べています。

それは”土地の支配”を国家支配の基軸に据えた新しい体制であり、戸籍によって人民を直接支配するそれまでの律令制支配とは国家段階を異にするからである。

平田, 2000, p.174

「王朝国家」の意味するところについては学者の間でも意見が分かれるところのようですが、ひとまず、平田は以下のように考えています。

筆者は、道真の基本構想に基づいて実施された延喜の国政改革によって、律令国家とは質的に異なる封建国家としての王朝国家が成立し、鎌倉時代末まで存続すると考えている。

平田, 2000, p.175

道真はみなさまご存知のようにこの後道半ばで失脚するのですが、彼の改革構想は後の延喜の国政改革へと受け継がれていきました。

おわりに

この本を読むまで、道真がこんなにも優れた手腕とビジョンを持った政治家だということを知りませんでした。貧困に苦しむ民衆にふれ、国のあり方を問い直し、改革を進めるものの失脚する……。うーん、なんだかロベスピエールに似てますね。

それでは次回はいよいよ道真の失脚と左遷について振り返っていきます!どうぞお楽しみに✨

参考文献

 平田耿二(2000)『消された政治家・菅原道真』 東京:文藝春秋.

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