菅原道真紹介記事、いよいよクライマックスです!今回は権力を得て改革を進める道真が失脚し、左遷されるまでの様子を紹介したいと思います。
これまでの道真について気になる方は以下の記事も見てみてください!↓
失脚
天皇の寵愛と権力を得て、国を立て直すべく理想を実現しようとしていた道真ですが、ここで暗雲が漂います。
900(昌泰3)年、文学博士三善清行(847-918)は道真に書状を送ります。それは、忠告という体裁をとった引退勧告でした。清行と道真の間には長年の確執がありました。
道真は清行の書状は退けますが、本心では彼自身も危険を感じ取っていました。もうすでに899年には三度にわたり右大臣の職を辞退したいと申し出ていましたし、900年には右大将を辞任したいと申し出ていました。しかし醍醐天皇がそれを許してくれませんでした。
なぜならば、すでに国政改革の幕は切って落されており、道真が国政から手を引くことは許されなかったからである。
平田, 2000, p.178
ああ、もう火蓋は切られました。とことん行くところまで行くしかないのです(宝塚ファンならn回みた展開ですね……)。
道真による国政改革がつぎつぎに実施され、新しい国家構想を一気に実現するという方向に向かいはじめると、時平をはじめとする藤原氏の凋落は、誰の目にも明らかであった。それとは逆に、道真の権勢は日々高くなり、菅家廊下出身[筆者注:要は道真の門下ということです]の官僚は諸司に半ばするほどであったから、窮地に陥っていた藤原氏は、一発逆転の機を狙うしかなかった。事は急を要していた。
平田, 2000, p.179
こうして道真を政界から追放するクーデター計画が、裏で着々と準備され始めたのです。
902(昌泰4)年正月十五日、道真を追放する旨の醍醐天皇の宣命が発せられました。
醍醐天皇は、道真罷免の理由を、「おのれの分を知らず、専権の心があり、宇田法皇にへつらい法皇を惑わして、父子の心を離れさせ、兄弟の愛を破ろうとしたためだ」と述べました(平田, 2000, p.180)。
道真が地位を辞することを欲したときには引き留めた醍醐天皇が、なぜ急にこのような心変わりをしたのでしょうか。
実は、左大臣の時平が醍醐天皇に対して、「道真は醍醐天皇を廃し、斉世親王を天皇にしようと目論んでいる」と告げたのです。斉世親王は醍醐天皇の弟であり、道真の娘婿でもありました。
時平の言葉を信じた醍醐天皇は父である法皇に相談もせず、道真の罷免を決定しました。醍醐天皇は当時まだ17歳の若さでした。
道真罷免の命に驚いた宇田法皇はこれをとめようとしましたが、天皇に会うことを許されず、結局道真は太宰府へ左遷されることとなりました。
道真と親しい人物たちの左遷も決まりましたが、道真門下全員が左遷されるということはありませんでした。道真門下の官僚は諸司の半分ほどを占めていたため、全員を左遷してしまうと政治がたちゆかなくなってしまうからです。これほどまでに道真の政治への影響は多大だったのです。
道真は本当に醍醐天皇を廃して斉世親王を天皇にしようとしていたのか?
この問いは、これまで様々な学者によって議論されており、道真が本当にこのようなクーデターを目論んでいたと結論づける学者もいるそうです。しかし平田は「道真とそのブレインによる国政改革の進行、それに並行する道真の権勢の高まり、この二つの要因によって、藤原氏が謀略をもって道真を政界から追放した」と主張しています(平田, 2000, p.190)。
道半ばでの失脚
平田は、道真の改革構想は主に①税制②徴税・監査制度③土地制度の3つであると述べています(平田, 2000, p.192)。これだけ聞くとよくわかりませんが、かなり大きな改革だったようです。
しかし、秦・漢時代から培われてきた律令という法体系を二百年にわたって遵守してきたわが国が、ここにきて、それをすべて廃棄し、独自の全く新しい法体系を制定することなどできるはずがない。律令をすべて否定すれば、行政組織・官職制度などの律令諸制度で成り立っている国家そのものが崩壊する。
平田, 2000, p.193
②徴税・監査制度についてはすでに寛平8-9年にかけて実現していましたが、①と③はまだ実現していませんでした。
税制を改革するためにはまず土地制度を改革しなければなりません。そのため、道真は、6年に1度行われる班田を待っていました。班田は延喜2年(902年)に行われる予定で、これが済めばいよいよ道真による王朝国家設立が行われる予定だったのです。
しかし道真はその直前に左遷されてしまいました。
逆にいえば、左大臣藤原時平とそのブレインは、国政改革の最後の仕上げとなる土地改革が開始される前に、なんとしても道真を政治の舞台から引きずり下ろさなければならなかったのである。そうしなければ、道真は新しい国家体制の生みの親として、その権力は不動のものとなり、藤原氏は権力の座から滑り落ちることになる。ということは、時平のブレインとなった氏族や文人・学者の凋落も決定的なものとなる。
平田, 2000, pp.193-194
こうして道真は権力の座から引きずり下ろされ、太宰府へと左遷されることになりました。
太宰府への左遷
2月1日、道真は京都の自分の屋敷を去ることになります。このときに詠んだのが、かの有名なこちらの歌。
東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
現代語訳はこんな感じです:春になって東風が吹いたら、匂いを私のところまで届けておくれ、梅の花よ。主人がいなくなっても、春を忘れてはだめだよ。
妻と他の家族は京都の屋敷に残りましたが、道真は幼い男女2人を連れて太宰府へと向かいます。太宰府までの道のりはかなり大変だったようです。
太宰府に着くと、見物人たちが満身創痍の道真を待ち構えていました。道真は嘔吐し、足元もおぼつかず、皮膚にはしわがたくさん刻み込まれていたそう。なんだかヴァレンヌ逃亡から帰ってきたアントワネットを彷彿とさせますね。
太宰府での暮らしもかなり悲惨なものだったようです。家はボロボロで、貧しさのあまり連れてきた子どもも飢えて亡くなってしまったそうです。そして903年2月25日(現在の3月26日)、道真もこの世を去りました。享年59歳、桜が綻び始めたある日のことでした。
おわりに
唐を真似た政治制度では日本が立ちゆかなくなると感じ、新たな制度を構想した道真。しかし彼の栄華が藤原氏の脅威となってしまったため、突如左遷させられしまったのでした。死刑ではなかったものの、太宰での困窮した暮らしぶりを見るに、藤原氏は道真の死を願っていたのではと思わざるをえません。
ちょうど梅の花が綺麗に咲いていますね。みんなで道真に思いを馳せ、鎮魂の祈りを捧げましょう。
参考文献
平田耿二(2000)『消された政治家・菅原道真』 東京:文藝春秋.
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