『応天の門』:在原業平と藤原高子の恋

月夜に梅花を見る宝塚作品考察

こんにちは。本日は月組公演『応天の門』予習記事ということで、在原業平と藤原高子の恋愛について探っていきます。

月組公演では、主に回想シーンを通じて二人の恋愛が描かれていましたが、美しい和歌とも相まって、かなり印象的な場面となっていましたよね。『応天の門』は道真と業平という最強バディが平安の謎に挑む!という物語が主軸なのですが、業平と高子の儚くも美しい恋が彩りを添えていました。

今回はそんな業平と高子の恋愛の真相、そして二人の叶わぬ恋が生み出した意外な副産物についても紹介していきます。

※本記事は以下の本を参考にして執筆しているため、史実の業平というよりは「伊勢物語に描かれる業平と高子の恋愛」を紹介するものになります。

『小説伊勢物語 業平』を執筆した小説家、高樹のぶ子さんによる著書。本書では、在原業平の恋愛と、その渦中において彼が詠んだ和歌について解説されています。すらすらと流れるように読めました。高樹さんの小説の方も読んでみたいな〜。もちろん頭の中では業平がちなつさんに変換されて動いていました。笑

2人のプロフィール

在原業平

在原業平(825-880)は、父を阿保親王(平城天皇の皇子)、母を伊都内親王(桓武天皇の皇女)として生まれました。天皇と血縁関係のある、高貴な身分ですね。

平安時代を代表する6人の歌人「六歌仙」の一人にも数えられるほど和歌に秀でており、しかもイケメン。数々の女性と浮名を流し、その経験を和歌にしました。『伊勢物語』は業平が主役だと考えられているほどです。

そんな業平が一番愛した女性といわれているのが、藤原高子です。

藤原高子

藤原高子(842-910)は、父を藤原長良、母を藤原乙春として生まれ、おだちん(風間柚乃)演じる藤原基経の妹になります。基経とは父も母も同じです。貞観元年(859年)11月、清和天皇即位にともなって大嘗祭が開催されました。このとき清和天皇はまだ9歳です。この大嘗祭において、高子は舞を披露しました。その舞が非常に堂々としていたことが天皇を驚かせ、やがて清和天皇の女御、皇太后となりました。

高子は業平より17歳ほど年下です。

業平と高子の恋

出会い

業平は、病で苦しんでいる母親のために牛車で清水寺を訪れます。清水寺には多くの人々が参列しており、ちょうど業平の前に並んでいたのが高子でした。

待ち時間に牛車が隣同士になったことがきっかけで、業平は御簾ごしに高子に話しかけます。高子は業平よりも相当年若いながらもかなり気が強く、芯の強そうなそぶりをみせます。業平がこれまで関わってきた女性とは何か違うものがありました。業平は「俺になびかないなんて、おもしれー女」と思いどんどん高子に惹かれていきます。少女漫画的展開ですね。

蜜月

2人は人目を忍んでこっそりと逢瀬を重ねます。逢瀬といっても、御簾ごしに会話を交わすだけ。それでも、和歌を交わしながら愛を育んでいきます。

基経や良房は高子を天皇のもとへ入内させたいと思っていたため、業平との仲を引き裂きたいと思っていました。

駆け落ち

思いが募った2人は、駆け落ちすることを約束します。ある嵐の日の夜、業平は高子を連れて芦屋の領地まで行こうとしました。

芥川という川の付近まできたところで、高子は「あれは何?」と草の上に光っているものを指差します。

業平は逃げるのに必死で高子の問いを真剣に取り合いません。嵐がひどくなり、業平は高子をぼろ屋にかくまいます。業平は外で見張りをしていました。

やっと夜が明けてみると、そこに高子の姿はありませんでした。鬼に食べられてしまったのです。

そこで業平が詠んだのがこの歌。

白玉かなにぞと人の問ひし時
  露とこたへて消えなましものを

(「ねえ、あれは真珠?あれは何?」とあの人が聞いたときに「あれは露だよ」と答えて、いっそのこと私も露のように消えてしまったらよかったのに)

実際には道真のいうように鬼なんていませんから、高子は兄の基経に連れ戻されたというのが本当のところのようです。

在原業平はこれまで輝かしい人生を送ってきましたが、ここで初めて人生の挫折を知り、「自分は役に立たない人間だ」と落胆してしまいます。一方で高子は、天皇のもとに入内する意思が決まりました。

再会

866年、高子は25歳で清和天皇のもとに入内します。藤原多美子よりも遅れて入内することとなりました。

業平と高子は宴で再会します。そのときに業平が詠んだのがこちらの一句。

花にあかぬ嘆きはいつもせしかども

  今日のこよひに似る時はなし

(美しい花を見るといつも、飽きることなくいつまでも見ていたいという嘆きがありました。しかし今夜ほど強く思うことはありませんでした)

花への思いと、高子への思いを重ねているということですね。高子のそばにいつまでもいたい……という意味のようです。

業平はその後、高子の警護にあたることもあったようです。

そんななかで、業平の代表作ともいえるこちらの歌が誕生します。

ちはやぶる神代も聞かず竜田川

  からくれなゐに水くくるとは

(不思議なことがたくさん起こったという昔の神々の時代でさえも、こんなことは聞い
たことがない。竜田川に紅葉が浮き、真っ赤にそまって水をしぼり染めしているとは)

この歌では紅葉の美しさと高子の美しさが重ね合わされています。なんとも壮大でロマンチックな歌ですね。

高樹のぶ子は、2人の恋によって日本に和歌という文化が生まれたと述べています。

二人の恋は実りませんでしたが、もっと大きな文化の実りをこの日本にもたらしました。

千年を超えて今日まで続く和歌という文芸は、この恋から生まれ育ったと思えば、時代の流れだったにしても、胸を打たれます。

高樹, 2020, p.131

おわりに

業平と高子は結ばれることはありませんでしたが、2人はその後もお互いに思いを寄せ続けました。その切ない思いこそが歌人としての業平の成長を促し、今日まで伝わる数々の美しい和歌をうんだのです。

このような背景を知って観劇するとより『応天の門』を楽しめるのではないでしょうか?

それではまた次回!

参考文献

高樹のぶ子(2020年)『伊勢物語 在原業平 恋と誠』東京: 日本経済新聞出版本部.

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