怨霊なんて本当にいると思っているんですか?:道真の「祟り」について

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道真は太宰府に左遷され、その恨みから怨霊になった——。実際、道真左遷に関与した人物たちが道真の死後、相次いで亡くなっている。

以上のように、まことしやかに伝承されてきた「道真怨霊説」ですが、『応天の門』のツンデレ道真なら「はあ?あなたがた、本当に怨霊なんていると思っているんですか?」とでも言いそうだなあと妄想しました。実際、本当に怨霊なんているんでしょうか?今回は道真怨霊説について調べてみました!

相次ぐ不幸

903年に菅原道真が太宰府で亡くなると、その後道真左遷に関係していた人物たちが非業の死を遂げていきます。

まず908年に藤原菅根が雷に打たれて死去。彼は道真左遷の際に、宇田上皇が参内するのを阻んだ人物でした。

翌909年、道真を太宰府に追いやった張本人の藤原時平が死去。まだ39歳でした。

さらに洪水が起こったり、隕石が落ちたり、台風に襲われたりと、様々な天変地異が起こります。この頃から、巷では道真の怨霊のせいではないかという噂が流れ出します。

923年には醍醐天皇の息子で皇太子の保明親王が21歳で亡くなります。ちなみに保明親王の母親は基経の娘であり時平の妹の穏子でした。醍醐天皇も、「もしかしたらこれは道真の祟りかもしれない……」と思い始めるようになりました。

醍醐天皇は、道真の地位を右大臣に戻したうえ、正二位を送ります。さらに左遷の詔書を破棄。

それにもかかわらず、まだまだ不幸は続きます。925年、皇太子の慶頼王が5歳で亡くなります。慶頼王は保明親王と時平の娘、仁善子の間にできた子どもでした。

930年には清涼殿に雷が落ちます。これにより大納言の藤原清貫(母親は在原業平の娘・美子)と右中弁の平希世が亡くなりました。醍醐天皇は心労がたたったのか、体調を崩します。同年には皇太子の寛明親王(保明の弟)に譲位しますが、その後すぐに亡くなってしまいました。

怨霊なんているの?

実は私、↑を調べる前は「ちょうど寿命がきていたのでは?『米を食べる人間は100%死ぬ』というように、道真が死んだあと人間は必ず死ぬ。だって人間は死ぬように運命づけられているから」と、半ば冷笑モードだったのですが、調べてみて真顔になりました。いや、死にすぎでしょ??しかも雷に打たれて死ぬとか、インパクトがすごい。

平安時代の貴族たちは、占いによって様々な行動を決めていました。そのような時代でこんなことが起これば、そりゃあ道真が怨霊になった!と思わざるを得ないですよね……。

おわりに

道真亡き後、道真の左遷に関与した人物が亡くなったのは単に不幸な偶然なのかもしれません。

しかし、そう頭では考えていても、やはり不気味ですよね……。天才の道真なら一笑に付して終わることができるのかもしれませんが、私のような凡人は少々ビビってしまいます。

道真怨霊説、皆さんは信じますか??

参考文献

 平田耿二(2000)『消された政治家・菅原道真』 東京:文藝春秋.

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