今更、グレート・ギャツビー考

どこかの宮殿宝塚雑記

今更ですが、2022年月組の『グレート・ギャツビー』について最近考えていることをまとめます。

まだまだしっかりとした考えがまとまっているわけではないのですが、今回は備忘録的にざっくりと考えていることを記しておきます。

私が初めて『グレート・ギャツビー』に触れたのはバズ・ラーマンの映画です。ラプソディ・イン・ブルーの音楽とともにギャツビーが出てくるシーンが印象的でした。衣装や装置などはもう私の好みに刺さりまくっていたのですが、デイジーのふらふら具合にもやもやした記憶。

その後小説の方も読んだのですが、ストーリーを追うというよりは、文章の美しさに惚れ惚れとしながら読み進めていったら終わった……という感じで、あまり詳しく物語について考察しないまま終了。

そして2022年月組の『グレート・ギャツビー』鑑賞、という流れだったのですが、舞台や衣装の豪華さに「これぞタカラヅカ!」と感激すると同時に、「あれ、こんな話だったっけ?」となりました。

私が宝塚版の『グレート・ギャツビー』に違和感を感じた理由をいくつか挙げておきます。

まずはキャラクター設定。一番印象に残ったのは、デイジーの「馬鹿な女の子になってやるわ」ソング。原作小説でも、「娘はきれいなおばかさんに育てるの」みたいなセリフはあったと思うんですが、原作ではここまでデイジーのキャラクターが掘り下げられていましたっけ?(うろ覚えなので読み直さなければ)。小説を読んだときは、正直どの人物も捉えどころがないなあという印象でした。でも、宝塚版だとデイジーがどうしてこのようなパーソナリティになったのか、そしてなぜ再会したギャツビーとデイジーの関係は破綻してしまうのか、ということがギャツビーとデイジーという2人の人物の対比によってわかりやすく描かれています。

デイジーは、本当はギャツビーのことを愛していたけれど、ギャツビーの地位が低いために両親の反対によって別れさせられる。そこでデイジーは「馬鹿な女の子になって(なりきって?)、幸せにくらす」と決意します。つまり、自分の心の声(精神的なもの?)は封印して、表面的な富や名声から得られる享楽や快だけに目を向けて過ごすという覚悟です。

この描写があることによって、デイジーはギャツビーとの恋愛を諦めたことによって性格が変わってしまったということがわかります。

一方、ギャツビーは「馬鹿な男の子になろう」とは思わず、ひたすらにデイジーのことを思い続けます。このギャツビーとデイジーの思考の違いには、当時の社会構造が影響を与えていると考えられます。貧しい生まれとはいえ、ギャツビーは男性であり、自分一人で社会的的地位や財産を築くことができるからです。(とはいえ一応この時代は少しずつ女性の社会進出ができるようになってきており、これを象徴するのがおそらくジョーダン・ベイカー。しかしデイジーは生まれが良いからこそ自力で社会出世はできないのだと思う)。

ギャツビーとデイジーが離れ離れになって5年という年月が過ぎ去り、その間に2人は変わってしまいましたが(ギャツビーが「過去は取り戻せる」というのに対し、デイジーはそう考えていない)、2人の根底には過去の恋愛があります。宝塚版グレート・ギャツビーでは、愛・夢・理想と、現実の対立が2人を悲劇に導いているような感じがあり、これこそが宝塚ナイズされた特徴かなと思います。

一方、個人的な印象ですが、原作小説は、悲劇の原因を個人よりも社会に求めている気がします。デイジーは最初からギャツビーとは相入れない上流階級の女性で、だからこそトムかギャツビーかを選ぶことができない。最後にデイジーをかばったギャツビーが亡くなってしまうのも、上流階級の無責任さに殺されたという印象を受けます。原作小説においては、1920年代のアメリカ社会という状況が大きく影を落としています。

しかし、宝塚においては、1920年代アメリカというのは、物語を彩るための舞台装置にすぎません。主軸はデイジーとギャツビーという2人の恋愛であり、あくまでもその背景を彩るためのフラッパーであり、「アメリカの貴族」である。

原作小説には、物語の舞台を1920年代のアメリカにしたことへの必然性がありますが、宝塚版にはあまりそれを感じませんでした。主軸は一途に愛する男と、変わってしまった女のラブストーリーなのだから、時代や場所を多少変えてもどうにかなる気がします。

そしてこのことこそが、外部作品を宝塚化するときの問題でもあるのかなと思います。急に主語が大きくなってしまいましたが、外部の作品を宝塚化したとき、その作品が換骨奪胎されてしまうことがあるような気がします(もちろん作品の内容にもよりますけど!)。でもその換骨奪胎した結果にこそ、宝塚のあり方があらわれているのかもしれません。

また、少し話がそれますが、『グレート・ギャツビー』はかなり宝塚と相性の良い作品なのではないかと思います。『グレート・ギャツビー』はデイジーとギャツビーの恋愛物語のようでいて、ニックとギャツビーの話でもあるという、クィア・リーディングができる作品です。宝塚歌劇も、トップコンビのロマンチックな恋愛を重視しつつも、男役同士の絆や萌えを強調することがあります。この点で、『グレート・ギャツビー』はかなり相性が良かったんじゃないかと思います。夏目漱石の『こころ』も良さそうですね。

ここまで書いてみましたが、いまだに確信を持てません。今後もっと考えを深めていきたいです。

未熟な感想かと思いますが、一応今の記録として残しておきます。

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ため息がでるほど美しい、れいこさんのスーツ姿。これぞ男役の真骨頂!

村上春樹の翻訳↓

原文の響きも美しい。

映画版↓

クィア・リーディングについてもちゃんと勉強しないと……。

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